スイスTSI制作番組 ドキュメンタリー「チェルノブイリ原発事故その10年後」(1998年放送)が伝える大事なこと:浦安っ子の疎開を考える(都市濃縮・低線量被ばく)

(以下、転載です)


<1986年4月26日、旧ソビエト連邦ウクライナ共和国のチェルノブイリ原発で重大な事故が発生した。その事故で漏れ出した放射性物質は、ヨーロッパのみならずアメリカや日本にまで達した。
10年以上経った今も、周辺地域には放射能汚染が残り、人々を苦しめている。>

住民)
きのこを採りによく森に入るんです。全く平気な場所もありますが、ある場所に行くと、そのあと体調が悪くなるんです。森のあちこちに、まるでシミのように点々と危険な場所があるんです。
そこに足を踏み入れると夕方には具合が悪くなるんです。熱が出たり頭痛がしたりするんです。


-そこを避けて通れないんですか?

住民)
測定器をもっている訳じゃないし、何も知らされてないから、どこが放射能汚染されているのか、正確に分からないんですよ。
1991年のことです。私たちはコンバインを使って刈り入れの作業をやっていました。その作業中に突然、鼻血が出てきたんです。まるで滝のように。(鼻血はなかった筈のチェルノブイリ事故による被曝ですが、あります)
その上、耳鳴りもしたので、暫くのあいだ仰向けになっていました。
そのうち体も慣れてきたのか、いまではそこまでのことは起きませんが、最初の頃はひどいものでしたよ。


ーどこへでも行けるの?行ってはいけない場所は?
子供) どこへでも行けるよ。

ー危険は感じないの?
少しは感じるけど

ー家族はなにも?
うん、言わない。

ー森に入るのは禁止?その理由は?
子供)汚染されているから

ーでも木の実があるね?
子供)頷く

ーそれを採る?
うん

ー食べるの?
(肯定)

ー危険は感じない?
わからない

ー君の家族はみんな元気?何か問題はないの?
特にないよ

(住民)
子供は血液の病気を抱えています。貧血の一種で、全身に青いあざが出ています。なんとか骨髄移植をしたかったんですが、私たちの骨髄では駄目だと言われました。
あの子はチェルノブイリ事故の生き証人です。
この土地が放射能で汚染され、私たちがその土地でずっと生活してきた結果、あんな病気を抱えて生まれてくることになったんです。
普通の貧血なら、成長にあわせて自然に治ってしまうこともあります。でもこの場合は先天性の病気だから、そのまま放っておいても治らないんです。

-汚染がひどいのですね。食料はどうしているのですか?
食料?牛や豚は森に入っていって、勝手に汚染されたものを食べたりします。魚だって同じです。
でも分かっていても、それを食べなかったら生きていけないんです。汚染されていない食料を金で買えればともかく、給料は三ヶ月に一度だし。

ーいくらですか?
100万ベラルーシ・ルーブル=約30ドル

ー3ヶ月で?
ええ。たったそれだけ。

ーそれだけで生活できるんですか
畑があるし、牛とか豚とか、今あるものでかろうじてね。

母親)
子供たちは体のあちこちがおかしいんです。足とか他のいろいろなところが。
大人も頭痛に苦しんでいます。ちょっとトラクターで仕事をしてきただけで、みんな体調の悪さを訴えるんです。でも、誰も彼もがそんな調子だから、嘆きようもありません。

この子は目に悪性の腫瘍があります。…この病気が治っても、その後ずっと健康に生きていける保証はどこにもありません。僅かでもいいから希望が欲しいんですと訴えたら、そんなこと誰にも保証できる訳ないだろうって言われました。
今は化学療法で癌細胞を退治しています。でもそれは体の中に毒を入れるようなものだから、子供自身がひどく衰弱してしまうんです。
すぐに吐いたり熱を出したり。二度目の治療のあとは集中治療室に3日間も入ったくらいです。
だから、このままでは子供が死んでしまいますって訴えているんです。

ーあなたはどこが汚染地域かご存じですか
そんなことを知っている人はここにはいません。第一、殆どの人はもう避難しました。でも私たちは、誰もがいなくなった村まで出かけて、食べ物を集めています。
生きるためにです。

ーミルクの汚染を調べたことは?
ミルク?飲めるって言われましたよ。

ー自分で測ったことは?
いいえ、ありません。

ーほかの食べ物も?
どんな食べ物もある程度汚染されているのは分かっています。でも、慣れてしまいました。
だって何も食べなかったら、どっちにしても飢え死にするんです。生きるためには仕方ないじゃないですか。

老人)
ミルクを運んでいるのさ。

ー賃金はもらっていますか?
たまにはね。

ーミルクをどこへ?
バター工場だよ。

ー会社がお金を?
…まず私が馬でミルクを運ぶ。朝、5時に起きて村をまわってミルクを集めるのだ。それに対して毎月、
ミルク代と運搬料をもらう。そういうことだよ。

ーいくら貰っているんですか?
奴らの言い値だよ。

ー支払いはちゃんと?
気が向いたときだけだ、いつもそうだ。…バスが来たよ。分析に来たんだ。私らが農産物を持っていくと放射線の量を測ってくれる。汚染の度合いをね。
前にミルクを1リットル持っていったことがある。野生のナナカマドの実も大きな樽にいっぱいあったんで、それをバスまで運んで行った。
こう言われたよ。ナナカマドは食べては駄目だ、すぐに埋めてしまいなさい。ミルクのほうは飲んでもいい。但し、子供には与えないように。
子供は駄目だが、年寄りは飲んでも良いんだとさ。

(原子物理学者 ウォロジー・ミル・チヒー)
例え科学者といえども、歴史的に長期に亘る問題について話し合うと、ごく普通の市民とほとんど変わらないレベルであることが分かります。
多くの場合、確実な知識もないし、長期的な展望も持てないでいる。当然、なんの準備もできていません。
未来に目を向けると、どんな風に対処していいのか分からない問題が山積みになっています。そういった問題の数は、これからも増える一方でしょう。
この10年間に起こった事件や事故を振り返ってみても社会や国家がそれらに十分な対応をしてきたとは、とても言えません。社会や国家は、テクノロジーの進歩が生み出す危険性を良く理解していないのではないか、私にはそう思えてしかたありません。

(事故当時)

原子物理学者 ワーシリー・ネステレンコ教授:以下、ネと略しています。)
排気塔が見えてきたぞ。
右側にあるのが4号炉の中央ビルだ。スイッチを入れて!
ネ)
原子炉の上空をヘリコプターで飛んだときに、私はこう思いました。信心深い人々が言う地獄というものがもし存在するなら、私はいまその真っ只中にいるんだ。
ヘリのなかにいても、大変な量の放射線を受けていました。一時間あたり100レントゲン。600レントゲンを浴びれば命を落とすことになります。
明け方だったので、朝日が原発を照らし、下で何が起こっているのかよく見えました。印象的だったのは、原子炉内の黒鉛が半分ちかくなくなっていたことです。
コンクリートの塀だけは残っていました。
15分ほど上空にいました。
私はもっと良く見るために身を乗り出そうとしましたが、仲間に首根っこを押さえられてこう言われました。
どこに行くつもりだ、子供のことを考えろ。

そのとき一緒にいた仲間の大半は、もうこの世にいません。ギガソフもカラシオフ教授もみんな死んでしまったんです。
周辺地区から子供たちが連れて来られました。
私はその子たちの放射線量を測定し、次々と大学病院へ送り込みました。

あのとき初めて、人間にこんな大きな害をもたらすテクノロジーなど要らないと思いました。そして原子力エネルギーにはもう二度と関わるまいと誓ったのです。

<事故を起こした発電所の施設はたいへんな量の放射線を発していました。この光景を撮影したカメラマンも、のちに放射線障害のため、命を落としています。
それと同じ悲劇は事故の後始末に携わった人々のあいだにも起きました。
処理作業には、発電所の職員は勿論、近くの住民たちも加わっていました。やがて作業員の多くが重い病気に罹りました。
しかしソビエト政府は治療費を節約し、世論の反発を抑えるため、彼らの病気と事故との関連性を否定しました。
ソビエトが崩壊すると、ロシアもウクライナもベラルーシも経済危機に立ち向かうのが精一杯となり、彼らの苦しみはますます社会の片隅へと追いやられることになりました。>

元リクビダートルの妻)
知り合ったとき、夫はあと一年の命だと宣告されていました。そのときは歩くこともできませんでした。
でも、愛が奇跡を起こしたんです。私は当時、看護婦をしていました。そして死の宣告を受けた彼が同じような境遇にある人たちのことを気遣っているのに、心を打たれたんです。

ーそれで恋を?
誰でも英雄には憧れるっていうでしょ。
よくこの子が言います。ママ、火に触っても火傷しないようにするにはどうしたら良いの?
ママ、神様に会わせて。ママ、教会に行こうよ。
そういうことにとても興味があるんです。どうしてだか分かりますか?
この子は神様や奇跡というものを心から信じているんです。そしてこの子を見ていると、私にも神様の存在が感じられます。

ー名前は?
子供)ビタリコ・スラビク

ー大きな声で
子供)ビタリコ・スラビク
お家はバリソフ

ーなぜこの病院に入院しているの?
病気だから。
おなかの横が痛むんだ。ほかにもいろんなところが

ーおなかが?
そうだよ

ー脚のほうは?
こっちの脚が痛かったけど、もう治った。今は大丈夫

母親)
この子は生まれた時から病気でした。ポリーブが直腸を塞いでいたので、すぐに手術しましたが、慢性化する可能性もあると言われています。同じような症状は、大人にも現れています。ある程度、覚悟はしていました。
ーあの作業に関わった影響ですか。
はい。どんな問題に直面するかはだいたい分かっていました。どんな母親もそんな心配はするものですけど。

(事故当時のリクビダートル映像)

元事故処理作業員 ビクトル・クリコフスキー)
数年前、あそこで一緒に作業をした若者たちの家を訪ねてまわりました。でも、誰とも会うことはできませんでした。家族が出てきて、いつも同じ答えをするんです。
もう死んでしまいましたってね。

私たちは証明設備の取り付けを担当していました。作業は24時間ぶっ続けで行われます。私たちの任務は、夜間作業に使う照明の確保でした。
ケーブルを電源に繋いで引きずり出し、5人~10人のチームで、その長いケーブルを持って走るんです。
なかに入るとそれを投げ出します。作業時間は2分と定められていました。
そして次のチームが非常階段を上り、ブロック塀の上から照明を当て、敷地内を照らします。
我々は事故の後、かなり早い時期からその作業に携わっていました。

ー作業時間は守られていましたか?
いやぁ、まさか。確かに係りの人間は2分以上、作業をしないようにと言っていました。でもそんな短い時間で全ての作業が終わると思いますか?
たったの2分ですよ。その間に、走ってなかに入り、作業をして帰ってくるなんて不可能です。
規定は2分でしたが、実際には5分から7分はかかっていたでしょう。

(事故当時)
指揮官)
屋根がだいぶ剥げ落ちている。タールは担架に、破片は手早く投げ捨てるんだ。わかったな?
ひとりが積み込み、2人で運ぶように。90数えたら走って戻れ。質問は?
作業開始!

-作業中に受けた放射線の総量はどれくらいですか?

クリコフスキー)
知りません。だいたいの数字だけでも知りたいと思って頑張ったんですが、とうとう何も分かりませんでした。発行された証明書には、明らかに嘘だと分かる数字が書かれていました。
まあいずれにせよ、かなり高いことだけは確かです。
1000レントゲンまでには行かないにしても、おそらく500は超えていると思います。

たくさんの病気を抱えています。実は脳萎縮なんです。

ーほんとうに?

ええ。医学的な常識では70、80を過ぎた老人が罹る病気なんですが、私の頭の中で、大脳皮質の変性が進んでいるんです。脳浮腫もあるし、血液の循環も悪化しています。
脳だけじゃなく、全身がおかしくなっています。記憶能力がだんだん衰えてきました。しょっちゅう頭痛もします。それに視力もどんどん落ちています。血液の状態も最悪だし、他にも山ほど問題があります。
潰瘍に胃炎に(苦笑)。いまさら数えたところでなんの意味もありません。
私はもう良いんです。ただ、息子のことが。

(当時の映像)

元事故処理作業員 ピョートル・シャシュコフ)
作業のために軍用の自動車が貸し出されました。バーティというものです。

ーどんなものですか
基本的には戦車によく似ています。前にシャベルがつき、後ろにバケツがついたブルドーザーみたいなものだと思って下さい。軍の人間からは、お前たちを守るための装備だと、ただそれだけ言われました。

ー一緒に作業をしたボロフスキーさんを覚えていますか。
シャシュコフ)はい。

ーいまはどこに?

土の下です。

ー確かですか。

ちょっと失礼…死んだんですよ。
みんな逝ってしまいました。名前を挙げることだってできます。リストがあるんです。

ーリスト
部下たちのです。

ーそのほとんどが?
ええ。…大半の人間が。つい二週間前にも、また一人。

ーまだ今でも、みんな若かったんでしょうね
35、6ってとこです。生きていれば。

ー十分な治療は受けることができたんですか
十分な治療?笑わせないで下さい。この先、まだ何人死んで行くか分かりません。ほぼ全員が病気に罹っています。作業に関わった人間はことごとく。
それでも国はチェルノブイリ関連の病気を認めようとしないんです。

ー信じがたいことですね
全くです。
ボルフスキーの写真ですね。見せてもらっても良いですか?彼とは仲の良い友人でした。一緒に工場で働いていたこともあるんですよ。

<事故から3日経った4月29日には、ポーランド、ドイツ、オーストリア、ルーマニアで、非常に高いレベルの放射能が検出されました。
4月30日には、スイスや北イタリアで、更に数日すると、イギリスやトルコ、イスラエルでも異常が記録されました。また上空高く舞い上がった放射性物質は気流に乗ってさらに遠くへと運ばれ、
日本、中国、インド、アメリカへまで到達しました。
一週間と経たないうちに、チエルノブイリの被害は世界的な規模へと発展したのです。
もし自らの身を犠牲にして事故処理に携わる人々がいなかったら、その被害は更に想像を絶するものになっていたことでしょう。


ネステレンコ教授)
原発保有している国々は、チエルノブイリの事故から、なんの教訓も得なかったように思えます。
ベラルーシ共和国の人口はおよそ1000万、その四分の一はチェルノブイリの周辺地域に住んでいます。
しかも子供が50万人もいるのです。
事故からもう10年以上経つのに、そういう人の安全はいまだに確保されていません。
そんなテクノロジーが存在して良いものでしょうか。

あの事故のあと、私は西側諸国の原発を見学しました。
しかし彼らは、あなたの国の原発と違って、わが国の施設は極めて安全ですと言うばかりでした。
そして万が一のときの安全対策も、半径2、30kmの範囲でしか考えられていませんでした。200km以上離れていても、まだ危険だというのに。


<ネステレンコ教授はチェルノブイリ事故の直後から、被害の拡大を少しでも抑えようと努力してきました。
そして1990年から93年にかけて、ベラルーシ、ウクライナ、ロシアの3カ国にまたがる専門家独立委員会を組織しました。独立委員会は独自に調査を進め、人々の受けた被害は国際原子力機関の公式発表より大きなものであることを訴えています。

ネステレンコ)
チェルノブイリに隣接した地域で獲れる作物は、今後数十年間、汚染されたままでしょう。
ベラルーシには甲状腺がんに侵された子供が驚くほどたくさんいます。
事故から10年以上ものあいだ、放射能に汚染された食べ物を採り続けているせいで、住民の免疫力は著しく低下しています。
さまざまな感染症に対し、とても弱い状態になっているのです。
私はそれを核によるエイズと呼んでいます。

<ネステレンコは最も汚染のひどい地域にいくつもの食料放射線管理センターを設置、地元の医師や教師たちに専門知識を伝え、とくに子供たちの身を汚染から守るよう働きかけてきました。
しかしそのような施設の多くは、財政的な事情から閉鎖に追い込まれました。
僅かに存続しているものもヨーロッパのNGOから受けている資金援助が頼りです。
アイルランドから寄贈された救急車に乗り、放射線の量を測定する機器を携えて、ネステレンコは汚染地域を巡回しています。人体の汚染状況を調査し改善するためです。>

ネ)残念なことに、多くの子供たちの体がいまも放射能に蝕まれています。例えば事故現場から
200km以上離れた村でも、子供たちのうち23%が白内障に罹ったり失明したりしています。その村では84%以上の子供たちに不整脈がみられました。まるで心筋梗塞の予備軍です。
というより、すでに多くの若者が心筋梗塞に罹っているような状況です。
およそ80%の子供が胃炎や潰瘍を患っています。特にひどいのが12才から15才の子供たちです。
胃の粘膜が萎縮し、まるで70過ぎの老人のようになっています。つまり放射線の影響を受けた子供たちは、命の炎を急速に燃やし尽くし、将来、病気になることが確定しているのです。

私自身、同じような状況にあります。体内でいくつかの酵素を作る能力が失われてしまったので、食べられるものがごく僅かしかありません。もう慣れてしまいましたけどね。
科学者の放射線被曝許容量は一般市民の10倍とされています。いろいろな自衛手段を知っているためです。普通の人よりも健康で、放射線に強いからではありません。

ネ)魚は調べたんですか?
父親)他の人に食べても良いと言われましたけれど。

ネ)子供は1kg当たり、37ベクレル以上の放射能を含んだものを食べてはいけません。
これは70ベクレルもありますよ。…あなたは釣りを?
父親)はい。趣味で。
ネ)なるほど。それで合点がいきました。とにかく子供に与えては駄目です。
父親)子供たちはそんなに沢山食べてはいませんよ。
ただ私が食べているとねだるので、ちょっと味見させているだけです。

ネ)私たちはペクチンをベースにした新しい薬を見つけました。ウクライナで製造されているものです。水に溶ける錠剤で、大人でも子供でも、これを一ヶ月間服用すれば、30%~40%の放射性元素を体外に排出できると言われています。


ネ)以前の数値はどれぐらいだった?1kgあたり471ベクレルもあったんだね。マリーナ、錠剤はちゃんと飲んでいる?
マ)はい
ネ)どのくらい?
マ)あと3錠しか残っていません
ネ)ちゃんと飲んでるようだね。私のポケットのなかに少しあるから、それを持って行きなさい。
ずっと飲み続けるんだよ。それにしても何故こんなに数値が高いんだろう。
マ)…
技師)最近、森に生えているキノコを食べたりしなかった?
マ)食べてません。

ネ)じゃあ、干しキノコのスープを食べたことは?
マ)もう干しキノコはありません

ネ)他に何か野生のものを食べたことは?例えば野うさぎとか。
マ)食べてません。
技師)前にあった干しキノコをぜんぶ食べたんでは?

ネ)前は干しキノコは
マ)ありました
ネ)たくさんあったんだね。それはいつ食べた?
マ)4月ごろです

ネ)4月ねぇ、そのせいか。マリーナ、君はいま15才?それとも16かな。
マ)16です。

ネ)いいかい、マリーナ。君の年だと、4月に食べたキノコの放射能を半分排出するのに8月の末までかかるんだよ。半分排出するだけで三ヶ月以上かかるんだ。
安全なレベルに達するには、この先ずっと汚染されていないものだけ食べ続けても、一年はかかる。このまま放射性物質を体内に蓄積していると、健康に取り返しのつかない悪影響を及ぼすことになるよ。

技師)現在のマリーナの数値ですが、セシウムが301ベクレル。ですから170ポイントも下がっています。

ネ)それは素晴らしい。あと3カ月下がってくれれば良いんだが。
さあ、今日はこれで終わりだ。健康には十分気をつけてね。あの子は家族になにか問題があるようだね。気をつけたほうがいい。

子供たちに錠剤を出し始めてから二十日が過ぎました。一日に二回ずつ飲んでもらっています。
多くの子供が放射性物質を30%以上、排出しました。一人だけですが、完全に輩出してしまった子さえいます。
子供たちは最低でも年に一回は検査を受けるべきです。そして汚染地域に住んでいる子供たちには、
年に3、4回、この薬を与える必要があります。その場合の費用は、一人年間で28ドルになります。

<一人の子供を救うのに必要な費用は一年にわずか28ドル。しかしそれを必要とする子はベラルーシだけでも50万人います。結果的には大きな金額となってしまうため、ネステレンコの計画が実現する目途はまだ立っていません。>

医師)骨髄移植の手術を行います。骨髄の提供者は患者の弟、名前はサーシャです。
6歳の弟から8歳の兄へ移植する訳です。

ー要する時間は?
医師)1時間半くらいかかります。
お兄さんを助けるために提供を申し出てくれました。
万事、快調よ。こちらがお母さんです。

母)ふたりは2歳4ヵ月違いの兄弟です。兄のほうが病気で…。

ー進んで手術を受けるとは、すばらしい兄弟愛ですね。
母)(頷く)2人で元気を分け合うんだと言ってました。

ー成功を祈ります
母)ありがとう

腫瘍・血液学センター院長 オルガ・アレイニコワ)
ベラルーシの子供たちは多かれ少なかれ、なんらかの問題を抱えています。あの事故の影響からは、
誰も逃れることができないからです。
子供だけじゃありません。大人も同じです。
当時はまだ生まれていなかった子供さえ、そうなんです。
汚染された環境で育った女性たちが母親となる時期を迎えています。でも生まれてくる子供たちは、放射線そのものと母体を通じて受け継がれる悪影響、その二つの脅威に晒されているんです。

ー奥さん。
女性)なんですか、なにかご用ですか。

ーこの辺りにお住まいなのですか?
女性)乳牛を飼って生活していますけど。私らをこの土地から追い出そうとしても無駄ですよ。ずーっとこの土地で暮らしているんですから。いまさら追い出そうなんて。

ーずっとここに?

女性)そうです。魚もキノコも木の実もほしいものは何でも手に入るし、美味しいミルクを出す良い牛もいます。私たちはこの土地に種を撒き、作物を植えてずーっと生きてきたんです。
そんな生活もあの事故が起きて以来、台無しです。
ほんとに酷いことをするもんです。放射能なんて誰にも分かりません。そんなのデタラメですよ。

ー搾ったミルクは?
女性)勿論、売ってます。

ー牛の餌は
そこらの草を食べてます。

ーその辺りで?
今は人も減りましたからね。

ー汚染されてないんですか
そんなこと知りませんよ

ーあなたは健康なんですか
冬はちょっと悪かったですねえ。

ーどんなふうに?
なんだか分からないけど、皮膚に変なものができたんです。腕だとか腋の下だとか、体のあちこっちに。

老婆)呼吸に障害が
老人)そうなんですよ。治療を受けて、薬を飲んで、ただうとうとするばかりの毎日です。

老婆)しかたないよ。
老人)あの事故が全てを奪ったんです。
老婆)出て行けたのは金持ちばかり
老人)10年以上経ったのに、いまだに避難しろと言われます。でも避難などできるはずがありません。お金があればいざしらず、私らなんかにはお金などない。それに今更どこかへ動くつもりもありません。
この生まれ育った故郷を守っていきたいんです。
…あなたたちの気遣いには感謝しますよ。有り難く思います。
私は81年生きてきたが、良かった日は80日もありません。あとは苦しみと悲しみばかりです。

ー何故ですか
老人)ここで何が起きたかは知っているでしょう。社会主義とかいろいろあったけど、たった一つの事故で全てが終わったんです。まあ、神様が許してくれる限り、まだ生きていくつもりではいますがね。

(チェルノブイリ)

カメラマン セルゲイ・コシェレフ)
発電所内部の中央管理室に来ています。全てが破壊されていて、まるでSF映画の一場面のようです。
一人でいると余計そんな感じがします。
歪んだ金属が、巨大な空間の一部を占領しています。

事故を起こした4号炉の下には時間を歪める力が存在するようです。
あそこに10分か15分いたつもりでも、戻ってくると実際は1時間以上経っていたりします。
つまり時間の感覚が失われるんです。

ーそれはかなり危険では?

コシェレフ)勿論。
カメラを手渡され、撮影してこいと言われ、はじめてあのなかに入った訳ですが、足の裏に強い放射線を受けるから気をつけるよう言われました。確かに足の裏が焼けるような感覚を覚えました。でも段々と慣れていくものです。今では、普通の仕事と何も変わりません。

<コンクリートで固められた4号炉の内部には200トンにも及ぶ核燃料がいまも散らばっています。いずれ廃棄しなくてはならないものですが、その作業が完了するのは百年先だと言われています。新たな核反応や放射能漏れを防ぐため、専門家チームが24時間体制で建物を監視し、その状態を記録しています。>

ーあなたは自分が受けた放射線の量を知っていますか
カ)勿論、知っていますが、これは私だけの秘密です。建前としては規定の範囲内に収まっていますが、実際にはそれとは別の数値があるんです。規定の数値を守っていたら、あんな撮影はできません。

ーというと?
カ)撮影する時間がありません。

ーそんなに短いんですか
規定に従えば、あそこには2秒しかいられません。

ーたった2秒?
そのとおり。たったの2秒で、いったい何ができるというんですか?

ーしかし体に悪影響は?
カ)記憶に障害が出てきました。時々、行動の順番を忘れてしまうんです。

元事故処理作業員 アナトリー・サラコベッツ)
昔のことで、現実じゃない。

ーそれはどういう意味ですか
サラコベッツ)
私たちの間ではそう言うんですよ。あれは昔に起こったことで現実じゃない。勿論、すべては現実です。
でもあの頃のことは思い出さないほうがいい。
だからこう言うんです。昔のことで現実じゃない。
以前は歩くことも車を運転することもできたのに、今はなにもかも駄目。悪い夢を見ているようです。
あの時は隊列に先立って散水車で地面に水を撒いていました。砂埃を抑えるためです。でも車内のほうが外より更に放射能が高かった。
…そのうちしょっちゅう転ぶようになりました。それで妻に車椅子を勧められました。でも一度座ったら
最後、ずっとそのままです。仕方ないことですけどね。

お尋ねしたいんですが、外国で誰か私を援助して下さる方はいませんでしょうか。
車が欲しいんです。それを使ってたまには田舎に出かけたいんです。こんなふうに自然と切り離されていると生きている実感が味わえません。
今の生活は何から何まで悪夢のようです。とても耐えられません。
贅沢な夢かも知れません。
でもこのままでは、もう私の人生もおしまいです。

ー神を信じますか?

よく分かりませんが、いずれにせよそんなに大きな罪を犯したつもりはありません。
ごく普通に生きてきたのに、なんでこんなことに。
思い出さないほうが良いんです。

太陽は輝いているし、世界はとても美しい。
でも思い出せば、すべてが悪夢に変わります。思い出さないほうが良いんです。
昔のことで現実じゃない。