ドイツWDR制作番組「潜入:フクシマ事故の検証と希望的観測のほかなにもない原子力」 が知らせる大切なこと (浦安市の教員は見るべきです)

(以下、転載です)

クォークス…へようこそ。
ちょうど1年前に福島第一原発の事故が起こりました。
そして本当は私たちが日本に赴き事故を起こした原発が現在どうなっているか、自分たちの目で見てみたいと願ったのですが
尽力したのですが撮影の許可は下りませんでした。
これまで、どのようなカメラチームもこの原発の中で自由に撮影をしたことはありません。
情報、画像、写真などは、この原発の経営者である東電に統制されたものしか手に入れることができません。
しかし、隠れて撮影された画像もあります。
例えば、この時計が撮ったビデオ画像があります。
実は、この時計の中にミニカメラが内蔵されています。
ジャーナリストの鈴木智彦氏は、このような時計で原発の構内でひそかに撮影をしたのです。
彼は、原発作業員として中に潜入しました。

ここに見えるのが、彼が撮影した画像です。
作業員を乗せたバスがこうして原発構内に入っていき放射能で汚染された冷却後の水が入った
大きなタンクがいくつも立ち並ぶ脇を通ります。
それから作業員たちを待ち構えるのはマスクや保護服をつけたままでの重労働です。
鈴木氏は、この状態で仕事をするのはとても暑く息苦しくて大変だと証言しています。
作業時間は連続4時間。
そして一日の労働が終わるとまず保護服についた放射性物質の埃や塵をチェックします。
これがこのようなテントの中で行われるのですが鈴木氏によれば、東電はどうもこの計測を
あまり本気でやっていない、ということです。
東電は概して、独立中立の学者やジャーナリストを原発の敷地内に入れたくないと思っています。
彼らはどうやら、情報が管理できなくなり漏れてしまうことを怖れているようです。
私たちはこの番組で、小さい情報のパズルの欠片を繋ぎ合わせて、去年の3月11日からフクシマでいったいなにが起きたのか再構築してみたいと思います。
まず、不幸が起きた第一日目から始めることにしましょう。

それは定例の訪問だった。
材料検査サポートのため、ドイツ人のグループが福島第一原発を訪れていたのだ。
2011年3月11日、彼らはちょうど4号機で仕事をしていた。
そして、大地震が起きた。

(ゴルドン・ヒューニー氏)
地震の起きた時、幸いにも4号機の建屋の中にいました。
それを聞くと、誰も危険じゃないか、と言いますが本当にそこでは安全だったのです。
大きな配管があったのですが、それが大きく横に揺れるのが見えました。
地震で重みのあるものがそうして振動し始め、それで初めて、どんなに施設が弾性にできているか認識しました。

原子力発電施設は耐地震設計とされている。
しかし、マグニチュード9.0まで耐えるようにはできていなかった。

(ゴルドン・ヒューニー氏)
みんなしゃがみこんだ状態でどこかにつかまりながら見回しましたが、とても長く感じられました。

それでも原発は地震に持ちこたえた。
地震が起きると原発は自動的に停止する。
実際に東側の海岸で停止された原発は多かった。
それで送電ができなくなり停電が起きた。
地震が収まってから、彼らも原発施設を離れた。
スピーカーから津波警報が流れた。

(ゴルドン・ヒューニー氏)
奇妙だったのは、海が完全にひいてしまっていたことでした。
それも、数メートルなどというレベルではない、見渡す限り、海の水が後ろに消えていったのです。
港全体の底が見えていました。
そして画像でも見られるように船も吸い込まれるように海の奥の方に引かれ行ってしまった。
それを見た私は、そんなことありえない、何が起こるんだ、と思わずにはいられませんでした。
そして海の水があれだけの勢いでひいたのと同じように、それがまた戻ってきたのです。

信じられない量の水があっという間に、ものすごい圧力と共に訪れました。
そして海の遠くの方に見えていた船が、気がついたらもうそこまで来ていたのです。
まるでマッチ箱のように簡単に押し流された様子は、まさに見もの、としか言いようがありません。

原子炉建屋はこの津波をどうにか持ちこたえた。
しかし福島第一原発の原子炉は今やすべて非常用電源でしか動いていなかった。
このような重要な要素は何重にも用意されている。
福島第一原発は最高6メートルまでの津波に耐えるよう設計されていた。
15メートルの津波に耐えるようにはできていなかった。
津波は、非常用電源をすべて破壊してしまった。
5号機6号機の非常用発電機だけが高いところにあった。
それで津波に持ちこたえることができた。
ここだけではどうにか電気供給を続けていくことができたのである。
1号機から4号機までの電気は、もはやバッテリーで動いているだけだった。
あらゆる計器類はもう機能していなかった。
作業員たちは暗中模索で作業するよりなかった。
彼らは、冷却システムが次から次へと止まっていくのにすぐに気づかなかった。
非常用のバッテリーはもう使い尽くした。
原子炉は停止されても熱を出し続ける。
どの原子炉も、コイル式電熱器が1万個入っているようなものだ。
冷却水がどんどん蒸発していき格納容器の中の圧力が最大許容量の2倍に超過した。
0原子炉格納容器全体が、高圧で今にも破裂しそうになった。
それでエンジニアたちは、安全弁を開けた。
こうして水蒸気が原子炉の建物の中に放出された。
この水蒸気には、放射性ヨウ素とセシウムが含まれているが、なによりも多いのが、水素である。
とても危険な混合物である。

水素爆発が1号機の建物を吹き飛ばした。
それからあまり間をおかずに3号機も爆発した。
こうして放射性物質を環境に吹き飛ばした。
この爆発でいったい何が具体的に破壊されたのかは不明である。
4基の原子炉が今や冷却なしだった。
周囲は完全に破滅状態で原発施設にアクセスできる道路も津波の後の瓦礫で身動きできなかった。
原発作業員たちは一刻の猶予もなく行動を取らなければならなかった。

(ゴルドン・ヒューニー氏)
私たちがいたのはメインの大きなホールのような場所で
30メートルかける30メートルか、それ以上か
わかりませんが巨大な広間で
私たちは3,4人でした。
そして信じられないくらい静かでした。
どんなかすかな音でも聞こえるくらい静かで
みんなが声をひそめて話をしあい
辺りを見回して何が本当に起きたのか
確かめようとしていました。

原子炉を冷やすものは、もはや海水しかなかった。
海水の注入作業はしかし、放射線量が高いため
中断せざるを得なかった。
それで今度は、空中からヘリコプターで試みた。
しかし、そんなことで冷却ができるわけがなかった。
作業員は原発施設に戻らないわけにはいかなった。
どうしてでもメルトダウンすることだけは避けなければならない。
彼らは原子炉建屋の上から注水する作業を続けた。
しかし上からどんどん水をかければ
今度は汚染された状態で下からまた出てくる。
地下は水浸しになった。
作業員にとっては、とても危険な環境だ。

この汚染水が二人の作業員の長靴に入り込んだ。
汚染水に浸かったところは肌が火傷したような状態になった。
このような放射能による症状は
チェルノブイリ事故でよく見たものだ。

周辺の住民たちは避難施設に避難した。
ゴルドン・ヒューニー氏とその同僚たちも同じように避難した。

(ゴルドン・ヒューニー氏)
私たちは住民たちが避難した場所に着いたのですが
すぐそばに小さい子供が3人いるお母さんがいました。
私たち10人のドイツ人グループが着くと
食べ物など何もなかったのですが
そのお母さんがまず私たちにしたことは
クッキーを丸ごと一箱、くれることだったのです。
自分たちだってなにもないのに、クッキーをくれたのです。

更に携帯電話を貸してくれ、ドイツ人たちは
帰りの飛行機の手配をすることができた。
しかし日本人の作業員はそこに留まらなければならなかった。
彼らはその後数ヶ月、原子炉を冷やし続けた。
ことに重大な課題は、廃墟と化した原発施設を
どうにか守り通すことだった。
それは、難しい、しかも長期に渡る大課題だ。

(キャスター)
今では、福島第一では炉心溶融してしまったことがわかっています。
そして溶けた燃料が格納容器の底のコンクリートを溶かしている
しかしまだ侵食していない残りのコンクリートが
地下水との接触を防いでいる、と
東電は主張しています。
それにしても、1986年に起きたチェルノブイリの事故と
今回のフクシマの事故ではかなり類似した点があります。
画像をご覧ください。
これがチェルノブイリの爆発事故後
上空からヘリコプターで撮影したものです。
チェルノブイリではヘリコプターで
火災を消火しようとしました。
福島でも同じような状況が見られます。
そしてチェルノブイリでは事故処理作業者が
危険な場所に入り込んで
原子炉の残骸を清掃しましたが
日本でも似たような画像が見られます。
そしてたくさんの市民がチェルノブイリから
何千人と避難を余儀なくされました。
そしてそれと似たような光景が
25年経った日本で見られました。
これを見てわかるのは、原子力による事故というのは
どこであってもいつの時代であっても
どうやら同じようなシナリオに沿って展開する、ということです。
そしてこの2つの原発事故で見られるもう1つの共通点は
情報がなかなか出てこない、ということです。
チェルノブイリの清掃作業についての詳細は
ソビエト連邦が崩壊してからやっと公開されました。
このような画像はそれまで
見ることができませんでした。
この男性たちは、ソ連の軍隊から集められた人たちです。
彼らは破壊した原子炉の清掃作業をするよう命じられ
鉛の防護服を身につけて作業にあたりましたが
被爆した放射線量の管理もされませんでした。
そして何千人という人たちが、ことに屋根の上で
放射線量の高い原子炉から出た瓦礫を清掃しました。
最高90秒しかそこにいることはできませんでした。
90秒で、一生許容されるだけの放射線量を
受けてしまうという環境だったのです。
そしてチェルノブイリでも、ロボットによる
除染作業を試みましたが、これは当時の技術では
放射線量が高すぎて、うまく行きませんでした。
ここで、日本とまた共通点があります。
日本でもロボットを動員して作業を行っていますが
これは成功しているようです。

原子炉の事故以来、現場の作業員は瓦礫を取り除き
現場を清掃する作業に追われている。
作業員たちは原発施設の外にある仮の宿泊施設に
寝泊りしている。
原発内では放射線量があまりに高すぎて
ロボットしか入れないような場所がたくさんある。
これらのロボットが、福島では一番危険な作業をしているのだ。
これらのロボットを遠隔操作するのは
原発施設を隅から隅まで知り尽くした作業員である。
このような作業員の一人で、匿名を希望する男性は
イニシャルがSHという。
彼は毎日、仕事が終わると、作業日記を
自分のブログに書いている。
そのブログの名は、「言いたい放題やりたい放題」。

(SH氏のモノローグ)
4月26日。新たな業務は探索ロボットの操縦です。
今日は廃墟となったタービン建屋を見た。
泥だらけ、しっちゃかめっちゃか。
以前はどんな様子だったか、見る影もない。
まだこの建屋が立っているのが不思議なくらいだ。

SH氏がロボットを原子炉建屋で動かせるようになるまで
彼は特訓を受けなければならなかった。

(SH氏のモノローグ)
今日は放射線量のあまり高くないところで開始した。
それでもしっかり防護服をつけていなければならない。
でも、それを着ていると、朦朧とする。
ロボット操作は、プレイステーションの操作と似ている。

原子炉の最大の課題は、燃料棒を冷却することだ。
放射能に汚染された水が、どんどん地下に溜まる。
彼らはそれを処分しなければならない。
どこもかしこも瓦礫ばかりで身動きができない。
通路やドアなどは通ることができない。
放射能の埃にあたりは満ちている。
放射線量が高すぎて人間が動けない場所には
ロボットが行って探検し、通れるようにしなくてはならない。

(SH氏)
5月1日。ロボットを操縦し、搭載したカメラで後を追う。
僕たちは必ず2台で共同作業をしている。
万一1台に何か問題があれば、もう1台でサポートする。

毎朝繰り広げられる、防護服に着替える作業員の様子。
SH氏も1週間の特訓後、破壊した原子炉建屋に入ることになった。

(SH氏モノローグ)
5月11日。僕たちは下請け会社から派遣された作業員だが
労働条件は東電社員と比べるとずっとひどい。
かなりストレスを感じている。
今こそ、日本がどれだけ強力な精神をもっているか表示する時だ。
これだけの災害も乗り切ることができるのだと、見せてやろう。

彼らは成果を上げ始めた。
事故から約2ヵ月後、彼らは比較的安定した
燃料棒の冷却システムを作り上げることに成功したのだ。
原発施設内には見渡す限り、タンクが並んでいて
ここに汚染水がポンプで汲みこまれる。
放射能に汚染された水を溜めることで、海に
流出することを避けているのだ。
瓦礫は原発施設の広い範囲にわたって散らばっている。
どれも雨風にさらされたままなので
常時そこから放射性物質の埃が舞い上がる。
そうした埃は、立ち入り禁止区域以外にも広がる。
それを少なくするため、作業員たちは
ねばねばした特殊樹脂を散布した。
同時に建設用車両を遠隔操作して
瓦礫を片付け始め
重要な接続通路などが通行できるようにした。
放射性の瓦礫はとりあえず一時的に保管している。

(SH氏のモノローグ)
5月31日。今日は騒がしい。
けが人が出た。救急車でまず宿泊施設に運び
そこから病院に運び入れた。
6月3日。今日は1号機原子炉建屋の探査に入る。
瓦礫が多く、なかなか前へ進めない。
戻りは上り坂で、滑って登れなくなった。
砂塵が積もっていて、滑りやすい。
いろいろトリックを使って、どうにか克服。
自分で言うのも変だが
僕の操縦は定評がある
6月23日。3号機周辺にはことに瓦礫がたくさん落ちている。
ここの放射線量はとても高いので
ロボットの操作は遮蔽車の中に籠って行う。
エアコンがなかったら死んでしまいそうだ。
7月3日。今日は線量測定を行った。
3号機原子炉建屋の、昨日掃除作業をした場所だ。
その結果、平均的に1割程度線量が下がった。
7月4日。
ロボットオペレータが熱中症か?
これなら新聞の大見出しに載るだろう。
でも御心配は無用。ただの冗談だ。

少しずつ冷却水をポンプでくみ上げ
タンクに溜めることに成功していった。
しかしこれだけ大量の汚染水を安全に保管することなどできない。
それで、化学的処置で放射性セシウムを取り除いている。
そして放射性セシウムを取り除いた水を
再び冷却に使用する。
この装置は8月から機能し始めた。
これらの仕事ができるようになったのは
ロボットが道をつけたからである。
その次にエンジニアが始めたのは
1号機を軽いカバーで囲う作業だ。
3号機と4号機は、もう少し経ってからその作業をする予定だ。
このカバーができてからは、放射能の外部への拡散が
かなり減少した。
この作業には、4万人の作業員が必要だった。
作業員は、呼吸マスクをつけているので
毎日最高4時間までしか作業できない。
作業を終えると被爆線量検査を行い、宿泊施設に戻る。
SH氏や彼の同僚たちは、あらたにカバーで囲った状態で
溶融した燃料が取り出せるようになるまで
まだ長い時間がかかることを知っている。
それができるまで約30年から40年かかるだろうと
東電は言っている。
それが終了して初めて、原発廃墟の処分ができる、と。
しかしその予測は、かなり楽観的なものだ。
というのも、それまでなにをどのように行えばいいか
はっきりわかっている人はいないからである。
7月の初め、SH氏がいたグループは解体され、なくなった。
その理由は不明だ。
わかっていることは
あまりに外部に出される情報が少ないため
SH氏が日本でかなり有名になってしまった、ということだ。

(キャスター)
東電の発表によれば
これまでに、原発施設で働く作業員のうち
6名が一年間の最高上限値である250ミリシーベルトを
超える放射線量を被爆した、ということです。
しかし、そんなにはっきりとわかるものなのでしょうか?
実際には、もっといるのではないでしょうか?
でも、この問いには誰も答えられません。
同じように、この事故で全体でどれだけの放射線量が
放出されたか、ということもわからないのです。
多くの日本人は国内で発表される数値を信用せず
独立した調査結果を望んでいます。

アルゼンチンのサバンナには高感度の測定所がある。
ここで使われるこのフィルターが、人間が匂いを嗅ぐことも
見ることも意識して感じることもできないものを検出する。
放射性物質だ。
通常より多い放射性物質が大気中にあれば
この装置がそれを検出する。
たとえば南米で秘密に核兵器の実験が行われるとすれば
この装置で放射性核種が検出できる。
たとえば危険なセシウム137である。
これは原子力発電所所の事故でも放出されることがある。
これら世界80ヶ所に及ぶ放射能測定所のネットワークが
福島原発事故の評価でもとても役に立つことになった。
ノルウェーにある高層気象学研究所で
気象学者アンドレアス・シュトール氏は働く。
彼やその同僚たちは普通は、観測した天候データをもとに
雲の拡散を算出している。
しかしそれは放射能雲の拡散の算出でも役立つ。
このオーストリア出身の気象学者は、福島の事故の最中に
大まかな予報を出した最初の人物である。

(シュトール氏のインタビュー)
ことに日本からの問い合わせがとても多くなり
我々のウェブサイトは毎日パンクしてしまうほどでした。
それというのも毎日数え切れないほど
予報の問い合わせが殺到したからです。
そうしたことで、我々の方でも、予報のほかに
もっと何かできることがあるのではないか、と考えました。

事故直後の差し迫った状況が落ち着いてきて判明したことは
評価していなかったデータの中に
答えの出ていなかった問いに対する答えが
隠れている、ということだった。
どれくらいの量の放射線が実際に福島の事故で放出されたのか?
どの地域が一番被害を受けたのか?
そして今回の事故は、チェルノブイリ事故と同程度のものなのか?
ここウィーンに、世界中のデータが集められる。
この測定所は、ある独立した国際組織が
核兵器がどこかで使用された場合に
それをすぐ見つけ出すことができるよう、屋上に設置している。
気象学者アンドレアス・シュトール氏は
ここのデータにアクセスすることに成功した。
このデータをもとに彼は、福島原発事故が
どう進行したか完全に再構成することができた。
彼が算出した事故の再現図により、3月11日の事件に
まったく新しい見方が投げかけられることになった。
事故が起こってから最初の3日間は
放射能の雲は太平洋に向かって流れた。
原発のすぐ近郊に住んでいた住民だけが
本当に危険な状態にあった。ほとんどの市民たちは
早めに安全な場所に避難することができた。
彼らはわずかな量の放射線しか受けなかった。
しかしまもなく、危険は広がることとなった。
震災から4日目、低気圧が発生し
風を内陸に送り込んだ。
しかも、その時に限って
大量の放射能が大気に放出されたのである。
避難区域外のひなびた地方にも放射性物質が舞い落ち
何年も人の住めない場所にと変えていった。
9日目。風向きがまた変わった。
今度は放射能の雲が首都圏を脅かした。
首都圏には3500万人が住んでいる。

(シュトール氏)
高濃度の放射能の雲が首都圏まで運ばれたのですが
幸いなことに雨が降りませんでした。
これによりもっと大規模な不幸が起こらずに済みました。

しかし、放射性物質を含んだ雨は
ほかの地方に降り注いだ。
こうして3日間、日本は放射能に汚染された。
アンドレアス・シュトールの算出のお蔭で
福島事故をチェルノブイリの事故と
並べて比較してみることができるようになった。
福島では、25年前のソ連と比べて
約半分の量のセシウム137が放出されたことがわかった。

(シュトール氏)
福島をチェルノブイリと比較すると
チェルノブイリでは内陸にほとんどの放射性物質が
散布されたことがわかります。
地理的にあそこではどの方向から風が吹いても
内陸に落ちる以外にはなかったのですから当然です。
そういう意味では福島は沿岸沿いであったことが幸いして
放出された放射性物質のほとんどが海に落ちたのです。

合計すると、このような数字になる。
79%のセシウムが海に落ちた。
そこで海水に薄まり、比較的無害となった。
19%が日本の国土を襲った。
そしてほかの大陸まで届いたものは2%だ。
そのほとんどはアメリカ大陸だが
それがどのような影響をもたらすかは検証できない。

ということで、ともかくも日本が発表している
放射能放出量は大まかな数字から言うと
あっていることになります。
それでは、セシウム137の被害を
福島周辺とチェルノブイリで比較してみましょう。
ここに2つ地図がありますが
両方とも同じ縮尺です。
これを見ると、チェルノブイリでは
検出された地域が日本よりずっと広いことがわかります。
まず白ロシア、ウクライナ、そしてロシアに広がっています。
日本ではそのほとんどが太平洋に流れた
ということがあるわけですが
今度は日本の状況をもっと詳しく見てみたいと思います。
放射性物質は均等に散布しません。
それは風の吹き方によってことに強く被害を
受けた地域が出てしまいました。
ちょうどこの区域の住民たちは避難させられました。
そして、この赤で印をつけた部分では
これから何年にもわたり穀物を作ることが許可されません。
さて、私たちが知りたいのは、これから実際に
福島原発がどうなっていくのか、ということです。
東電はこれについて、とても野心ある計画書を作成しました。
それをこれからご覧ください。

1号機に続き、ほかの原子炉建屋にもカバーをつける。
その内側で作業員は、2年以内に
まず原子炉建屋の上の部分から瓦礫を撤去する。
そのあと、東電はまだ完全な状態にある
燃料棒の取り出しに取り掛かる。
原子炉圧力容器脇の使用済み燃料プールで保管されているものだ。
これにはさらに2年かかるとされている。
そのほか、壊れた原子炉建屋はすべて
除染を行う。
これにより高い放射線量がかなり減少し
一番困難とされる作業が開始できるようになるだろう。
圧力容器の漏洩箇所を密閉する。
10年後には圧力容器を完全に水で満たす。
これが行われて初めて
損傷した燃料の取り出しに取り掛かることができる。
これは遠隔操作で、完全に水の中で行うことになる。
その作業は25年後には終わる予定で
そしてさらにそれから10~15年の間に
破壊した原発を解体撤去し
放射能廃棄物を処分する。
通常に停止された原発と比べここでは
相当の量の貯蔵容器が必要となるだろう。

(キャスター)
フクシマの事故がどのような健康被害を
及ぼすようになるかということは
今の時点では予測するのが困難です。
放射能による健康の被害は、
十年の単位が過ぎて出てくることが多いからです。
それも、発病したガンや
心筋梗塞などが、放射能から来たものか
因果関係を突き止めるのはきわめて難しいのです。
ということは、日本人は今後こうした不安と
生きることを強いられるということになります。
しかしことに自制心や落ち着きに関しては
日本人は、奇異に映るほどです。
よい子の模範、というふうに感じてしまうのは
私たちだけがもつ印象なのかもしれません。
特派員フィリップ・アルブレッシュはそれを深く観察しました。

チンポムは東京出身のアーティストグループだ。
彼らは原子力に反対するクリエーティブな闘士たちだ。
リュウタ、エリイ、モトム。

(モトム)
3月11日がすべてを変えてしまいました。
そうなったら芸術など重要ではなくなり
どうやって助けることができるか考えました

(エリイ)
私はまず言葉も出ませんでした。
あとになってから、自分が感じたことを
言葉にしようと思いました。

(モトム)
最終的に、もし僕たちに何かできることがあるとすれば
アートしかない、ということがわかったんです。

彼らは事故が起きて1ヵ月後に
フクシマの立ち入り禁止区域内に入り込んだ。
この時期にこれほど原子炉近くに入り込んだ人はいなかった。
3号機はまだ蒸気の立っている残骸だ。
白い布に、彼らは赤いスプレーで
日の丸の旗を描き、それを次第に放射能のシンボルに変えていった。
原子力国家の日本。

(モトム)
僕たちは防護服にマスクをつけたのですが
とても暑くて、ほとんど息ができない感じでした。
僕たちは放射線量が一番ひどいところまで行ったんです。

抗議行動としてアーティストたちは
放射能に対するぞんざいな扱い方を糾弾する。
市民をしっかり守れない、または
守ろうとしない国に対しても抗議する。

(エリイ)
これまでの人生はもう戻ってきません。
どこにでも3月11日のことが追って来る。
もう普通に散歩もできない
いつなにがあるかわからない、と思うから。

(リュウタ)
日本を離れようと思いますか?
僕は、日本にいるよりない、と思っています。
それならば、この問題に向き合う以外にない、と。

渋谷駅。
ここは毎日100万人の人間が行き来する。
ここには何年も前から岡本太郎の巨大な作品
「明日の神話」が飾られている。これは
芸術家の岡本太郎氏が広島や長崎の原爆投下を
芸術的に表現したとされている作品だ。
核の恐怖の年表といえよう。

(リュウタ)
単に出来事が1つ1つ単独にあったわけではない。
日本には核にまつわる歴史がたくさんある。
だから、この核の歴史に、フクシマに関する新しい一章を
付け加えようというアイディアを思いついたのです。

フクシマのインスタレーションがかかっていたのは
たった1日だけだった。
すぐ警察が駆けつけたからだ。
何十年も日本人は線を引いてきた。
悪者の原爆と、善玉の原子力エネルギー、という具合に。
それを混同することは、今日も許されていない。
それがたとえ絵画の中であっても、だ。

(モトム)
政治が機能していないなら、なおのことアートが
役割を果たさなければいけない、アートの方が人を動かせる。
実際に何ができるか、これからが楽しみです。

こうしてチンポムは、彼ら自身の「明日の神話」を
つくろうと活動している。
フクシマが起こったあとではなおさらだ。

(キャスター)
フクシマの事故以来、日本では
原子力エネルギーに対する人々の意識は変わりました。
70%の人が被爆が怖い、といっています。
フクシマの事故に対する海外での反応は
それぞれ異なるものです。
世界中で今現在、合計で435基の原発が稼動しています。
そのほとんどは米国
ヨーロッパ、そして
ロシアにあります。
フリカ大陸にはほとんど原発は見当たらず
南アフリカに数基あるだけです。
すでに原発を持っている国では、さらに
新しい原発建設を計画中で
中国では現在なんと、26基の原発が
建築中ということです。
また17カ国が原子力エネルギーに乗り出そうとしています。
バングラデシュや白ロシアなどの国が
原発に乗り出す、などと聞くと
なんだか懐疑的になってしまいます。
わずかですが、フクシマの不幸があってから
まったく別の結論を出した国があります。
スウェーデンとスペインは、フクシマが起こるずっと以前に
もう新しい原発は建設しないと決定していました。
スイスとベルギーは、フクシマ以後
原発からの撤退を決定しました。
ほかに例を見ぬ政策変換をしたのは
ドイツでしょう。
フクシマの事故があったとき、ドイツでは全国で
17基の原発が発電をしていました。
フクシマの事故が起きてから、事は迅速に進み
4日後に8基もの原発が停止されました。
しかし、それでドイツの原発の歴史が
幕を閉じたわけではありません。
わが国には、50年の原子力エネルギーの歴史を通じ
溜まってしまった、いわば「在庫品」が保管されています。
そしてこの危険極まりない在庫品を
処分するという課題が残っています。

世界で発電される電気の14%を原子力が担っている。
しかし原子力発電は同時に、歴史上
一番危険なゴミも一緒に作り出す。
1万年は、この恐ろしいゴミの危険から
世界を守っていかなければならない。
問題はただ、どうやって、ということだ。

何十年に渡り、大西洋だけでも250に及ぶ
ドラム缶に詰められた核廃棄物を投棄してきた。
海水で放射能は薄まり、分散される、と今回も
フクシマの事故の影響を過小評価しようと言われたが
システマチックに核廃棄物を処分する場所として
海ほど不適なところはない。
というのも、放射性物質は確かに
あらゆる物質をもつ地球に接触し分散されるが
生物、有機体内に集積し
食物連鎖をどんどん駆け上がっていくからである。
そしていつの日か、とても濃縮した状態になって
我々の食卓に上る、ということになる可能性が高い。
世界中で、核廃棄物の海洋投棄が
よくないと認められるまで20年かかった。

環境保護団体グリーンピースは
海洋投棄に反対して運動を起こした。
そして、この海洋投棄が1993年に全面禁止となるまで
さらに20年かかった。
核廃棄物の処分原則として「分散」が
解決策とはならないことがわかり
今日ではその反対意見が当然の認識となった。
つまり、核のゴミはまとめて保管する、ということだ。
ことに厄介なのが
高レベル放射性廃棄物の扱い方である。
これも、どうにかして保管するしかない。
世界の各地で数十年以来
いわゆる中間貯蔵施設で核のゴミは溜まり続ける一方で
最終処分されるのを待っている。
原子力エネルギーを使用している国の間での
合意事項となっていることは
放射性廃棄物は地層処分するということだ。
この際、あらゆる種類の岩石層が候補に上がっている。
粘土層、岩塩層、そして花崗岩層だ。
どの層にも長所と短所がある。
ドイツではこれまで、岩塩層における
最終処分を実現するべく調査してきた。
岩塩をくりぬくのは技術的には簡単だ。
その代わり、岩塩は水溶性である。
そして水こそ、核廃棄物の最大の敵である。
そのため、最終処分するには、廃棄物は
水が入り込むことがないよう、隔離しなければならない。
それも、何千年にもわたって、である。
だから核廃棄物は保護コンテナに封じ込め
坑道に入れ込み、それから
コンクリートで完全に埋めつくすことになる。
水を通しやすい花崗岩層で処分する場合にはさらに
銅の被覆を被せて、地下水から廃棄物を守らなければならない。
そのあと、最終処分場は完全にコンクリートで
封じて、あらゆる環境条件に耐えられるよう
密閉しなければならない。
何があっても、なにかがそこから飛び出したり
中に入り込むようなことがあってはいけない。
将来どうなるか、予想してみよう。
何十年か経ってから、処分場の施設は
解体される。そして残りは
自然の成り行きに任せる。
この場所で未来、石油やその他の地下資源を求めて
ボーリングで掘られたりすることがないよう
ここに核廃棄物の最終処分場があったという知識は
受け継がれる必要がある。
しかし昔の安全標識が、未来でも理解してもらえるだろうか?
十万年後の人間たちに
我々の今日の技術がわかるだろうか?
廃棄物の入ったコンテナは500年
粘土層や岩塩層での保管に耐えられなければならない。
専門家の希望は、環境のあらゆる影響に対し
粘土や岩塩が充分な密閉性を持っていて
内部の活発な物質を封じ込めるだけの能力があるということだ。
花崗岩につける銅の被膜に対しても
20万年経たなければ、亀裂が出始めてはいけないことになっている。
しかし、いったいどのエンジニアがそんなことを
保証できるのかは不明である。
長い時間に渡り
気候は何度も変化するだろう。
ヨーロッパの次の氷河期は、すでに1万年後に予想されている。
地層も何度となく運び去られることだろう。
気候の温暖化や氷河期を繰り返すうち
地球は姿を変えていくに違いない。
山ができ、500メートル深い場所まで谷ができるだろう。
10万年単位での地質学上の変化を考えると
最終処分所を見つけるのは極めて困難だ。
放射性の廃棄物はどこでなら本当に安全に保管できるのだろうか?
現在保管されている場所は今は安全に見えても
地質学的に考えれば火薬の入った樽に入れてあるようなものだ。
解決方法の代わりに手元にあるのは
数え切れないほどの技術的な疑問だ。
そして、その疑問に答えられる人は誰一人、いない。
原子力エネルギーは、その当初からもともと
希望、という原則で進められてきたのである。
原子力エネルギー利用が始まって60年
世界に430基もの原発が稼動しているが
それらが出す放射性廃棄物の最終処分所は
まだ世界のどこにもないのだ。

(キャスター)
まだまだやらなければいけないことはたくさんあるようです。
わかっていることは、とにかくここドイツでは
エネルギー政策の転換があったということです。
つきつめれば、残されているのは2つの可能性だけです。
ドイツは世界のほかの国の物笑いになるか、あるいは
ほかにオルタナティブがあることを示せるか、です。
エネルギー転換というテーマはこの番組だけでなく
私どものラジオ放送でも取り上げています。
今度の木曜日には丸一日、エネルギー転換を
テーマに番組を展開しますので、ぜひお聞きください。
それでは、今日はこの辺で。

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